溝辺に於ける仏閣の歴史を見る時、年代は定かでないが有川に真言宗の祈願所があり、その後、肝付家の時代となり禅宗変わり竹子には宮川内、宮脇、祝儀園に代々禅宗寺があった。親鸞聖人が関祖された旧藩政時代の浄土真宗は念仏禁制のため、宮脇の民家の一室を御講寺として開信していた。明治9年信教の自由が勅許されて公然と称名念仏ができるようになり、明治12年現在地に説教所が設立された。
御講寺として麓、横川、牧園、吉松などの御講寺との交流が昭和27年頃まで続いた。一方、麓の御講寺は明治12年現在地に説教所を設立し、明治16年浄土真宗本派本願寺から、麓説教所として許可された。竹子、宮脇、祝儀園、石原の布教所に大分県内、佐賀県内から、2人の住職が派遣され、明治31年7月31日まで布教された。麓の説教所は浄土真宗本派本願寺の末寺として照明寺の寺号が下付され、初代開基住職は佐賀県佐賀郡諸富町東川教楽寺衆徒藤谷雲晴師であり現在に続いている。なお、竹子上寺布教所は宗教法人法組織設立寺則によって、照明寺出張所として認可され、現在に及んでいる。
竹子共正会創立の由来書に依ると日本が外国と始めて戦った。明治27、8年の日清戦争に勝利し、竹子の青年達は戦争勝利に酔いしれ、竹子の発展的気魂を失い、加えて毎年打ち続く旱害によって水田への灌漑水の事で上方限、下方限の対立は深まっていた。上方限の青年達は毎晩上寺に集まり、1本のロウソクで朝まで馬鹿話しに更けり朝帰りをしていた。このことを見兼ね、青年が立ち上がらなければ竹子は良くならないと、久木田青年が先輩たちの協力を得て、明治29年9月竹子青年共正会を設立したのも上寺説教所での話し合いが原点となっている。
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