たかせから高瀬、そして竹子
「たかぜ」の地名に「高瀬」という表記を使っていた時代があったことが知られています(現代でも満辺町高瀬〇〇〇番地と書いた表札を使っている家があります)
人類が地球上に生を受け、何世紀もの時を経て、言葉を使うようになると同時に、生命を保つ手段が海山の食材採取から米づくりへと変遷していきました。これに伴い、生活拠点が海辺から川を伝い、さらに川上へと遡上していく中で現在の竹子地区である一帯を「たかせ」と呼んで、位置の固定化をしたと考えられます。
戦国時代を終え、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉がまず始めたのが、全国の地租を均一化する為の田畑の測量でした。その際に、地名を分かりやすく2文字にまとめる作業も全国的に行われました。
その時「高瀬」となっていた「たかせ」も、その川上から川下まで多くの堰がある地形が、丁度皮を剥いた竹の子のようである様から「竹子」と書いて、「たかぜ」と読ませるようになったと伝えられています。
むかし、竹子の川は、在川と呼ばれていました。
その川は永尾国有林内の3、4か所の湧水がひとつにまとまり川を形成していたものでしたが、水量は乏しく川幅は狭いものでした。ひとたび大雨になると直ちに川は氾濫してしまい、水田の流出・埋没、人家の床下・床上浸水が発生し、その都度大きな被害を引き起こしていました。
この川は、河口で漁師の網によってお地蔵様がすくい上げられたという逸話から、いつの時代か網掛川と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
1965年に施行された河川法によりこの川は公共の利害に重要な川としてみなされ、2級河川となりました。その起点から元口橋(現在の石井口橋)の区間が1960年前後に改修され、その後1971年から12年をかけ、石井口橋から十文字開木堰まで総延長5,150mの改良工事が行われました。
改良工事前の川には、川上から豆付井堰、上宮川内井堰、下宮川内井堰、坂口井堰、馬場原井堰、捲返井堰、大坪井堰、水洗井堰、聖宮井堰、別府井堰、元口井堰、門前口井堰、栗下井堰、宮前井堰、影松堰、岩坂井堰、馬渡ヶ渕、
秀盛ヶ渕、極楽ヶ渕、小田井堰、中島井堰、下水流渕など多くの井堰、深さ1mから2m位のツブチ(方言)が設けられていました。
これらの堰は、川の水を出来る限り無駄にせず水田に水を引くために作られたと考えられ、「水の一滴は血の一滴」と言われていた事もうなずけます。
それでも不足した水田の水を補うため、江戸時代に薩摩藩によって作られた池が現在でも各所に残っています。
アクセス
車 :
九州縦貫道 横川IC から県道55号を10分
鉄道(新幹線):
九州新幹線 出水駅下車
南国交通バス 阿久根市役所前-鹿児島空港線 鹿児島空港行き 竹子バス停下車
鉄道(JR):
JR肥薩線 嘉例川駅よりタクシー
(国の登録有形文化財にも登録されている、鹿児島県内で最も古い木造の駅舎。明治36年に開業し100年余りの歳月が流れている無人駅。一見の価値あり)
近郊タクシー会社:
(川内)第一交通(株) 霧島神宮営業所 – TEL:099-557-0061
(有)中村タクシー – TEL:099-543-3333
飛行機 :
鹿児島空港から車で約15分
南国交通バス 鹿児島空港-阿久根市役所前線 阿久根市役所行き 竹子バス停下車